介護業界への想い

介護業界への想い

2021年7月9日

父親が脳卒中で倒れたことが理由

介護業界に少しでも役立ちたい!
父親が介護サービスを長年受けたことで実感したことです。

介護業界では殆どの施設で人材不足が深刻な状態です。
今後は更に少子高齢化が進み、人材不足によって経営破たんする施設も出てくるのではないかと危惧しております。

介護のお仕事は排泄介助や入浴介助など、決して綺麗で楽な仕事ではありません。

ニュースなどで入所者に対しての暴力行為が事件となり報道されていますが、職委員が認知症などを患った利用者からの誹謗中傷・暴力などを受けても大きく報道されるようなことがありません。

労働環境・労働時間・利用者からハラスメントどれをとっても大変な仕事であるにも関わらず公的サービスの一環として収入は決して高くありません。

それは公的サービスを民間に委託し、国が定めたルールに基づいて最低限度の決まった金額しか入らないためです。

できる限り施設の支出を減らす事業を行い、収益を上げて、その一部を職員に分配してもらいたいのです。


介護サービスはボランティアではありません。

立派な理念があっても収支が赤字であれば永続的にサービスを提供することはできません。


なぜ介護業界に対してのサービスなのか?

それは父親が自分の命と引き換えに教えてくれたのではないかと思っています。

生きているうちに親孝行をした。
と思えないから、せめて命の引き換えに名前だけでも残したいのです。

父親と過ごした偶然とは思えない奇跡の数々の記録を記したいと思います。
少し長くなりますが、最後までお読み頂ければ嬉しく思っております。

父親の故郷

私の父親 山下 高尚(ヤマシタ タカナオ)は1941年(昭和16年)4月18日 鹿児島県薩摩川内市下甑町瀬々野浦という離れ島で生まれ育ちました。

場所は九州の南西部に位置し、日本で一番西にある自衛隊の基地がある島国です。

島で有名な高さ127mの岩がシンボルです。
ナポレオン岩と呼ばれています。

貧しい家庭環境で愛情に飢えていた

私の父親は記憶も定かでない幼い時期に母親を亡くし、長女は優しい性格で母親の代わりとなって優しく育ててくれていたそうです。

姉が母親と間違えるほど大好きでしたが、小学生の時に死の病といわれた赤痢に掛かりスグに旅立ってしまったのです。

姉が急逝したことで誰にも甘えることができずに育ち、父親は本当に愛情に飢えた人でした。

中学卒業と同時に兄と二人で島を出る

戦後、鹿児島の離島で自給自足の貧しい家庭環境だったため、中学卒業と同時に兄と二人で知人や親類など一切ない阪神地域に二人で疎開しました。

日中は休みなく朝から夕方まで働き、夕方から夜間まで定時制の夜学に通って勉学に励みました。

10代半ばの少年が夜間高校に通いながら働いても所得は少なく、生活は毎月ギリギリの状態でした。

食べ物を買いたくても買うお金がありません。
空腹を抑えるために学校の水道水をお腹いっぱいまで飲んで毎日 空腹感を紛らわせていたそうです。

苦労しながら生き延び、愛情に飢えていた父親は幸せな家庭を築きたいと若くして結婚しました。

そして長女・長男・次男の順番で3人に子宝に恵まれました。

自分の子供には自分が苦しんだように貧しい想いを絶対にさせないい!

その強い信念から、子供たちには何不自由なく育ててくれました。

父親は会社の同僚とお酒を飲んで帰ってくることもなく、趣味すら持たずに働き続け高度経済成長期と共に豊かになり、念願のマイホームも手に入れました。

几帳面で厳しい性格だった

厳しい環境で育った経験から自分に対しても厳しいが、子供にも人一倍厳しく、数えきれないほど叩かれた記憶があります。
心は優しいが気性が荒くて激しい性格でした。

例えるなら漫画「巨人の星」に出てくる星飛雄馬の父親 星一徹というイメージでしょうか。


性格が急に変わった

1993年(平成5年)4月に長女が出産して待望の女の子(初孫)が誕生しました。

初孫が生まれてから厳しかった父親の性格は別人かと思うほ急にガラリと変わり、それまで考えられなかったほど、とても笑顔が多くなり、穏やかな性格に変わりました。

その急変ぶりには家族全員が驚いていたのを覚えています。

阪神・淡路大震災が発生

初孫が1歳9ケ月の頃 1995年1月17日 あの大地震 阪神・淡路大震災が発生しました。

姉は震災当時 神戸市の揺れが酷い地域に住んでいましたが幸いにも高台で築年数が新しい家だったこともあり倒壊は免れました。

運良く親子3人共にケガもありませんでしたが、3つのインフラ 電気・水道・ガスが完全にストップしたことから孫を連れて実家に帰省してきました。

おじいちゃん 世界で一番大好き

初孫はおじいちゃんが大好きで、父親が仕事から帰宅して玄関のチャイムが鳴らすとヨチヨチ歩きで急いで玄関まで迎えに行き、父親が玄関を開けると「おかえりなさい!」と大きな声で言い、次に「ハイ」と言って両手を高く上げて抱っこを催促してリビングまで運んでもらっていました。

父親がネクタイを外し、スーツを脱ぐと孫と一緒に風呂に入るのが日課でした。
お風呂場からはいつも孫のキャッキャという楽しいそうな笑い声が聞こえていました。

お風呂を出た後も孫は一切離れようとせず、父親の膝の上に乗り夕食を摂っていました。
膝の上で孫が「コレ」とおかずを指さすと、それをお箸で小さく切ってお口に入れる度に上を見上げてニコッと笑い、父親の顔を見ているほどおじいちゃんのことが大好きでした。

孫におじいちゃんのこと好き?
と聞くと、「世界で一番大好き!」と言いっていました。
父親が家にいる間は片時も離れようとしないほど、おじいちゃん子でした。

父親は生まれて初めて仕事以外の楽しみと喜びを知ったのかもしれません…。

孫が結婚するまで絶対に死ねない

そんな父親の口癖は孫が結婚するまで絶対に死ねない。

孫の結婚式に出るのが夢だ!
毎日のように言い、孫の成長を本当に楽しんでいました。

震災から1年程度が過ぎた頃 孫夫婦は転勤のため遠方に引っ越すことになり、楽しみにしていた孫との生活が終わってしまいました。

早い定年

苦労した父親は私が社会人になってしばらくして定年を迎えました。
当時は55歳という若さでの定年です。

仕事人間の父親は定年後も給与が大幅に下がっても嘱託社員として働き続け、会社規定の嘱託10年を期に延長できないことから同族企業で初の取締役となり更に働き続けました。


原因不明の体調不良

初孫も中学生となった2006年(平成18年)頃から父親は原因不明の体調不良により仕事にも支障をきたすほど悪化していました。

車で通勤していたのですが、運転すらできないほど悪化したため、責任感の強い父親は会社に迷惑を掛けてしまうと大好きだった仕事に終止符を打つため辞任届を提出しました。

辞任後 会社では盛大な送別会を開催して頂き、出席した父親が体調不良だったため私が車で迎えに行ったのですが帰りの車内で頂いた花束を持ったまま肩を震わせながら大きな声を上げて泣いている姿を見るのがとても辛かったことを覚えています。

生まれて初めて父親が泣いた姿を見た瞬間でした。


クルマの運転通信教育業に参入

私は新たなビジネスとして2008年2月8日(平成20年) 特許出願と同時に業界初となる「クルマの運転通信教育」に参入しました。

このサービスはインターネット上で車の運転が苦手な方が多くいることを知り、練習しても教わっても運転が上手くなれない方々に対して完全通信教育方式による車の運転指導という、どこもやっていないビジネスに参入しました。

この手法で発売したところ、ペーパードライバー教習に複数社通っても運転できなかった方々から知識で運転が上手くなる。
という評判から大ヒット商品となりました。

受講者の中で一番多かったニーズが、介護事業所に就職することになったが、軽自動車しか乗ったことが無くハイエースなどの大きな車を運転しなければならないから。
という理由がで介護業界にはニーズがあることを感じておりました。


最後の晩餐会

体調不良により仕事を辞めて静かに隠居生活を送っていた時期に大分県から弟夫婦が来てくれました。

老後の生活を心配することがないほど働いたのに若い頃の貧しい生活が抜け切れない、贅沢ができない親に感謝の気持ちを込めてフランス料理をご馳走しました。

この写真2008年11月22日の食事会後に撮影した写真です。

この楽しかった食事会から僅か4日後に予想しない出来事が発生し、これが父親との最後の食事会となってしまいました。

夫婦で旅行を楽しむ予定が

母親は年内いっぱいで定年退職となり、仕事を辞めて年明けから父親と二人で全国各地を旅行をしながら隠居生活を楽しもうと考えていた時でした。

あの楽しかった食事会から4日後に母親が仕事から帰宅すると、父親が身体が思うように動かずコタツから起き上がれないというので手伝おうとすると全く動かすことができず、異変を感じた母親が119番通報して救急搬送されました。

イメージ写真

搬送先の病院で告げられたのは左側頭部の脳内出血でした。

偶然にも発症してスグに母親が帰宅して異変に気付いたことから一命を取り留めることができましたが開頭手術をしなければならない危険な状態でした。

医師からは10年前に発症していたら、助からないレベルだが医療技術の発達によって後遺障害は残っても命は助かるとの話でした。

イメージ写真

2008年12月に開頭手術を行い、命との引き換えに右半身麻痺と言語障害を患いました。

母親はちょうど定年退職の引継ぎなどで、休むことができなかったため、私が毎日病院まで1時間近くかけて車で行き看病することとなりました。

2月に「クルマの運転通信教育業」に参入したため、幸いにも場所を選ばず、どこでも仕事ができる環境だったため毎日看病ができた理由です。

開頭手術をしてからしばらくして退院することになり、退院後は言語障害や歩行などのリハビリを行うため転院することになりました。

イメージ写真

母親は引継ぎのためしばらくは看病することができないため、私が父親の看病をすることになり、私の自宅から約500m程度離れた場所にあるリハビリ病院に転院させて朝・昼・晩と食事介護などをしていました。

リハビリ病院での入院期間は約半年ほどの長期間となり、その間に実家では父親が生活しやすいようにバリアフリー化するためにリフォームを行いました。

リハビリ病院を退院後してから私が車で父親を連れて帰り、久々の家に戻ると父親は何度も何度も噛みしめるように「家が落ち着いて一番いい」と幸せそうな顔で喜んでいました。

外食もせず仕事が終わると真っ直ぐ帰宅して夕食を楽しんだ後にコーヒーを飲む。
これが一番落ち着く生活スタイルだと言っていました。


介護施設を知る

ケアマネジャーの担当が決まり、複数のデイサービス事業者をご紹介頂きました。

私も見学がてら複数の介護施設に行く機会が幾度となくありました。

そこで気付いたことは、介護施設の車両はビックリするほど全ての車に凹みやキズがあることでした。
「クルマの運転通信教育業」で受講生が一番多かった理由がこの時 自分の目で確かめることができた時でした。

父親が骨折して入院

デイサービスなどを利用しながら約半年が過ぎたころ、母親が目を離した隙に父親は固いフローリングの上に尻餅をついてしまい、股関節を骨折して入院することになりました。

股関節はギブスができないので、寝たきりの長期入院生活で退院後はまた別のリハビリ病院に転院することになりました。

リハビリ病院の入院時に主治医との面談があり、そこで私と母親は主治医から衝撃的な一言を言われました。

ご主人の病名は認知症とパーキンソン病を患っており、この病は命に直接的に影響を及ぼすものではありませんが、パーキンソン病は全身の筋肉が徐々に固くなり、その結果 呼吸系などに影響を及ぼし器官に異物が入り、肺炎で死に至る病気です。

私の経験則から余命は長くて3年です。

これを聞いた瞬間に母親の頬から自然と涙が零れ落ちるのを見て、とても悲しかったことを覚えています。

主治医の発言は近い将来必ず体験する出来事で私たちの心のダメージを少しでも軽減を考えての発言だったと思います。


父親が父親を卒業した日

2011年(平成23年)3月11日 母親は役所などに書類提出などがあるため、リハビリ病院に入院している父親の介護をお願いされたので私は朝から個室の病室で父親と過ごしていました。

このリハビリ病院では全病室にテレビが装備されいますが他の病院と異なり、有料のテレビカードでなく自由にテレビを観ることができました。

私はテレビを積極的に観るタイプでもないため、通常ならテレビのスイッチを入れることはないのですが、なぜかその日はテレビのスイッチを入れていました。

チャンネルはNHKでしたが緊急速報が流れたあと放送番組が急に変わりました。

アナウンサーから発せられた言葉は
「東北地方の広い範囲で強い地震が発生して津波警報が発令されました。
海岸付近にいる方は至急 高台に避難してください。」

繰り返し・繰り返し何度もアナウンスし、画面は宮城県の気仙沼港東北の海岸を映したライブカメラに切り替わり、生配信されていました。

地震発生の報道からしばらくすると情報カメラには津波が押し寄せるシーンが映し出されました。

津波警報が発令されて海岸沿いの一部が津波の影響を受けるかも…。
と軽い津波をイメージしていましたが、予想をはるかに超える規模の津波が押し寄せ、車や住宅流がされ、私はテレビに釘付けとなり、自然と大きな声を上げていました。

認知症が進んでいた父親には残念ながら詳しい状況を理解する能力が失われていましたが、生命の危険性があるほどの緊急事態であることは認識していたようでした。

そして父親は私に対して「お母さんは大丈夫か?」「お母さんは大丈夫か?
と少し声を荒げながら何度も言い続けました。

私が東北地方で発生した遠くの地震だからお母さんは大丈夫だから安心して!
と何度も説明しましたが、それでも「お母さんは大丈夫か?」と言い続けていました。

そのやり取りがしばらく続いた後に父親が発した言葉に驚きました。

あんたらよりお母さんの方が大切なんや!

真剣な表情で父親の口から発せられた本心の言葉でした。

認知症を患うまでの父親なら、自分は一切飲まず食わずでいても、子供達にはお腹いっぱいだから食べろ!

と自分や妻よりも子供を最優先にしていた父親が発した言葉は予想もしなかったため本当に驚きました。

お父さん本当にありがとうございました。

お父さん、本当に本当に長い間ありがとうございました。

東日本大震災のこの日まで ずっと自分を殺して父親としての責任感だけで生きてきましたが人でした。

この日を境に私の願いは3人の子供の顔、そして名前まで全てを忘れ、ただひたすらに自分のことだけを考えて残り少ない余生を豊かな気持ちで過ごして欲しいと願いました。

あの東日本大震災の日に15歳で身寄りもないまま疎開して働きながら勉強し、子宝に恵まれ、孫に出会い、マイカー、マイホームを手に入れローンを払い終え、同族企業で取締役まで昇りつめた立派な父親の卒業の日でもあったのです。


死ぬまでに一度は行ってみたい!

主治医から余命宣告をされたことで母親と父親の死について語ることが多くなりました。

ある日 母親からお父さんは昔から一度でいいから四万十川に行きたい。と言っていた!というのです。

仕事と孫以外何ひとつ自分の楽しみを知らない父親の願いを何とか叶えてあげたい!
余命宣告をされて、明日父親が生きている保証などどこにもない。

そう強く思うようになり、リハビリ病院の主治医に父親が一度でいいから四万十川に行きたいと言っていたので連れて行きたいとお願いしました。

すると主治医からは、認知症が進んだ現在の状態では四万十川に連れて行っても認識できない状態であることと、病院の規定で外泊は最長1泊2日となっており、許可できなと言われました。

しばらく沈黙が続いた後、主治医は重い口を開き、病院の規定で病室を3泊以上空けると強制退院となりますから3日以内であれば患者さんが何らかの理由で帰ってこなかった場合は別ですけど・・・。

だだし病院としては何か問題があっても一切責任は負えませんから・・・。

認知症がかなり進行していますから四万十川を見ても理解できないでしょうし、記憶には残らないと思いますけど・・・。

主治医の発言は余命宣告した時と同様に残された家族の心のキズを少なくするための治療だったように思えます。

本当に優しい先生でした。


徹夜で四万十川に

2011年4月14日木曜日のリハビリ病院の夕食が終わってから1泊2日の外出許可書類を提出して父親を一旦実家に連れて行き、日付が変わった頃に車でで四万十川へと向かいました。

四万十川に到着したのは翌朝の10時頃で、予約していた遊覧船の乗船予約時間に間に合わせるため1回だけ軽くトイレ休憩した以外は10時間ほど走り続けての到着でした。

四万十川に行っている間は仕事が止まるため事前準備で前日も殆ど寝ていなかったこともあり、高速道路で軽い居眠りに近い状態で何度も焦ってハンドルを切ったことを覚えています。

絶景の四万十川

到着直後に撮影した四万十川

四万十川に到着すると急いで父親を車から降ろして車椅子に乗せて四万十川が一望できる場所に連れて行きました。

「お父さん、一度は行きたかった四万十川だよ」わかる?

と話しかけると、いつもは認知症の影響で焦点が定まらない目つきが、数年ぶりに見るシッカリとした顔つきに変わって無言で頷きました。

車椅子に乗せている間に天候が悪くなり、少し曇ってきた

父親はじっと無言のまま一度は行ってみたかった四万十川の景色を脳裏に焼き付けていたように見えました。

この瞬間に幼い頃から苦労して苦労して家庭を築き上げてくれた父親に少しだけ親孝行ができたと思える瞬間でした。

もう今日が父親と最後の日だとしても一切悔いは残らない!

と自分自身に言い聞かせていました。

遊覧船で四万十川を楽しむ

遊覧船を運行している会社には事前に事情を説明すると、車椅子のままで乗船できるように数名のスタッフまで手配して頂きました。

写真をご覧の通りバリアフリー化された道ではありません。

車椅子から落ちると生命に関わるような状況なのに、死ぬまでに四万十川に行きたい話や余命宣告された話をしたことで遊覧船のオーナーが願いを叶えてあげましょう!

と言ってくださったおかげです。
本当に感謝の気持ちしかありません。

私とスタッフ総出でバリアフリー化されていない橋を車椅子に乗せたまま遊覧船に運んだ。

驚いたことに、遊覧船が出発し始めると更にシッカリした目つきに変わりました。

数年ぶりに見る健康な時の顔つきに戻っていました。


足摺岬 名門のホテルに宿泊

遊覧を楽しんだ後は足摺岬にある昭和天皇が宿泊されたこともある名門 足摺パシフィックホテルに宿泊しました。

ロビーには昭和天皇が宿泊された時の写真が飾っている

落ち着いた雰囲気のロビー

海が見える露天風呂

このホテルには海を一望できる露天風呂があるのですが、ホテルの本館から長い渡り廊下を通り抜けて水族館の横を通って岩場を抜けた先にあります。

そこへ行く道のりは狭い上に凹凸があって車椅子を使って行くには非常に危険と判断してホテルのスタッフにお願いをして父親のために家族風呂を手配して頂きました。
景色は劣りますが、貸し切りで檜風呂の甘い香りがするお風呂で汗を流してあげることができました。

客室内

落ち着いた雰囲気でおもてなしが伝わるお部屋でした。

海の幸 豪華なお食事

海に面した足摺岬だけあって美味しいお魚料理でした。
特に四国はカツオが有名で、カツオ料理が印象的でした。

帰りはスタッフがお見送りしてくださった。

足摺岬の海岸へ

ホテルをチェックアウト後に足摺岬の海岸へ向かいました。

楽しかった四万十川の旅は2泊3日の旅行も終わり、足摺岬を午前中に出発して一旦実家に戻り病院の入り口が閉まる18:00までに到着しないといけないハードな運転でしたが病院に着いたのは17:55とギリギリでした。


リハビリ病院を退院後は

リハビリ病院を無事に退院して父親が大好きな家に戻ることができましたが、長期入院で寝たきりだったことも重なり、足の筋肉は痩せ衰えてしまい、立つこともできない状態となっていました。

この状態で食事介護・排泄介護など母親独りでは無理があり、母親の肉体的・精神状態もギリギリの状態でした。

この時はじめて終身で入所できる介護施設のことを特別養護老人ホームという名前を知りました。

そしてスグに家の近くにある特別養護老人ホームに入所申請しましたが、空きが無く、入所見込みはとうぶん先になることを伝えられました。

母親の体力・精神的にも限界だったため、ケアマネジャーさんに相談したところ、特別養護老人ホーム以外は一時的な施設としての考え方なので長くても数ヶ月しか入所できない。と言われました。

特別養護老人ホームの空きが出るまで様々な介護施設を数か月ごとに転々と利用しながらお世話になりました。

ここで多くの介護スタッフと接することで介護業界の必要性と待遇改善に何らかの役に立ちたいと考え始めていました。

母親は運転免許を持ってなかったため、介護施設に行くためにバスを何本か乗り継ぎ、バス停から30分以上も歩いて父親のために毎日・毎日欠かさずに介護施設に通い続けました。

介護施設の多くは土地代が安い僻地に建っていることが多く、家から車で15分で到着する距離でもバスを乗り継いで片道2時間ほど掛けても毎日通い続けた母親は凄いと思いました。

介護施設の職員さんからも、これだけ愛されているご主人は本当に幸せな人ですね。
本当に奥さんや家庭をを大切にされた方なんですね。

どの介護施設でも同じような誉め言葉を頂きました。

そんな日々を2年近く続けた頃に念願だった家から一番近い場所にある特別養護老人ホームの空きが出ました。

近くのバス停から2つ目のバス停を降りた所にあり、徒歩で行っても15分ほどの特別養護老人ホームです。

毎日介護施設に通う母親は楽になりましたが、特別養護老人ホームに入所するということは、家が大好きだった父親が二度と生きて戻れないことでもありました。

特別養護老人ホームに入所してから数年が経過しました頃にはパーキンソン病が進行して身体はかなり硬直し、認知症も進んだことにより私を見ても全く反応することが無くなってきました。

大好きだった孫も年に2回ほど関東から高速バスを使って施設に来ていましたが入所した頃は孫を認識できていましたが、大好きだった孫すら一切認識できない状態まで病は進行していました。

私は東日本大震災の日に子供の名前から顔まで忘れて身体は不自由になっても心は軽くなって欲しかったため、父親の身体に痛みが伴わなければ望んでいたこともあったので一切辛くはありませんでした。

奇跡のはじまり

母親は早い段階で父親に万が一のことがあっても早急に対処できるようにと地元の冠婚葬祭場の会員になっていたのですが、ここから偶然とは思えないほどの軌跡の数々が起こりはじめました。

2018年(平成30年)9月 入所している特別養護老人ホームから緊急の電話連絡が入りました。

父親の容態が良くないため病院に入院させることになったのです。

通常なら介護施設と提携している病院に入る予定だったのですが、ベット数に余裕がある病院なのになぜかその時に限って全てのベットが埋まっていたのです。

治療を要するため介護施設と提携していない別の病院に入院することになりました。

命の選択

入院後に院長との面談がありました。

院長は医療に詳しくない私たちにとても理解しやすいように説明してくれました。

1日に200キロカロリーの点滴しか与えることができない。

高齢の男性でも1日に1000キロカロリーが無ければ体力は徐々に消耗し、若い人なら200キロカロリー程度の点滴なら1週間ほどしか持たないレベルであること。

点滴のカロリー数を上げると、高血糖状態となり糖尿病と同じ状態になって血管がボロボロになってしまうためカロリー数を上げたくてもあげることができない。

もうひとつの選択として胃に穴を空けて食料を直接胃に送り込む、「遺ろう」の2つの選択である。と言われました。

点滴をこのまま続ければ近いうちに必ず栄養失調となって餓死状態で遠くない日に命は失う。

「遺ろう」をすれば当面は死の問題は避けられるだろうが、管を通された状態で心臓が動いているだけの状態で医療費・年金など国の予算を使い続けることになる。

どちらを選択するのかを決めて欲しいとのことだった。

院長にどちらの選択がベストかを聞くと、院長の父親も数年前に同様に点滴か「遺ろう」の選択を経験したことがあり、院長は点滴を選択した経験を話してくれた。

院長はアメリカに留学して医学を学び、アメリカの病院で勤務したことがあるが、アメリカには「胃ろう」の選択肢すらなく、食べれなくなった段階で死を受けれる考え方との説明を受けた。

日本のように心臓がだけ動いていれば「生」として延命治療を選択できるのは世界的にみても珍しく、本当にそれが治療を受けている人にとって幸せなのか?というお話であった。

確かに父親には少しでも長く生きてもらいたいが、「胃ろう」をして命を繋ぐことはできるが日に何度も父親を苦しめてしまう出来事があるため、選択に苦しんだ。

父親を苦しめる理由 それが「たん吸引」だった。

病院のベッドで寝かされていると、日に何度か喉に「たん」が溜まる。

これを放置することで窒息するため、喉の奥に吸引チューブを差し込み「たん」を吸引するのだが、この時に他の患者を見ても、もがき苦しみ、足をバタバタさせて顔を真っ赤にしている。

食べる楽しみも無く、人の顔すら認識できなくなってきているのに、心臓が動くのを止めないだけのために日に何度も何度も「たん吸引」で苦痛を与え続けることは本人にとってベストな選択なのだろうか?

親族としては非常に難しく、苦しい選択ではあるが、私は父親と脳卒中が発症する前に脳の専門病院で検査を何回か同行し、検査後にはランチをご馳走しながら様々なことを話していた。

その中で誰でも必ず終わりが来る命についても話をしていた。

だから脳卒中が発症してから「父親が痛み」が無ければ家族を忘れようが生きていて欲しいと願っていたが、痛みが伴う「生」だけは本人が選択できないため私はノーという判断だった。


孫が結婚を決める

父親とのお別れが近くなってきたころ、孫は社会人となっていたが大学の同級生と付き合っており具体的な日程までは決めていなかったが将来は一緒になることを二人で決意していた。

孫は当時 東京にある有名な大きな病院で看護師をしていたので、1日に200キロカロリーの点滴を続けている状況がこの先どうなるのか?
を理解していたため、父親が「孫が結婚するまで死ねない」と発言していたことを知り結婚を決意した。

まだお互いの両親にすら結婚のご挨拶や報告すらしていないのに、大切にしてくれた大好きなおじいちゃんの願いを叶えるため、仕事が終わった足で急いで新幹線に飛び乗り、二人で病院まで挨拶に来てくれることになった。

私は母親が葬儀場の会員になっていたこと、そしてその運営会社が結婚式場と貸衣装をしていると聞いていたので、
母親に対して孫にウエディングドレスを着させて、その写真を撮影して父親に見せてあげたいと伝えた。

すると母親は大反対でした。

母親は毎日 父親の為に介護施設に行って手作りのヨーグルトを食べさせたり、硬くなった身体を少しでも楽になるよう1時間近くもマッサージしていたので、父親の状況は誰よりも知っていたからです。

ウエディングドレスの写真など見せても絶対に理解できるはずがない!

そんな無駄な時間と労力を葬儀会社の担当者にお願いすることはできない!

私と激しい口論になるほどやり取りをしましたが、私はこれだけは引き下がれない!
と言い続けた末に母親が根負けして葬儀会社の担当者にお願いをしてくれました。

すると担当者は事情を聞いて、会社にはお孫さんが当施設で結婚式をするという前提で特別に先に貸衣装の試着という手配をしてくれた。

一つだけ条件のある貸衣装

あくまでも試着なのでウエディングドレス姿の写真撮影であってもウエディングドレスを着たまま試着会場から一切外には出ることはできない。

私は試着室から出ることが出来なくても、初孫のウエディングドレス姿の写真を父親に見せるだけで私自身の満足感が得られるものと考えていたのかもしれません。


奇跡が起こる

婚約者と孫は仕事が終わってから新幹線に乗車したため、夜遅くに到着しました。

到着日は我が家に前泊し、翌日に車で病院に行くことにしました。

そして2018年10月6日 土曜日の朝にウエディングドレスの試着会場に入った。

実はこのウエディングドレスの試着会場は父親が入院していた病院の並びだったのだ。
距離にしてわずか200~300m程度。

本来であれば介護施設と提携している病院に入院していれば全く違う場所なのに、偶然にもその時だけ満床で入院できずに運ばれた病院が試着会場の近くだとは偶然が重なったとは思えない出来事だった。

だが、この後にもっと凄い奇跡が起こるとは予想だにしていなかった。

孫が試着室でウエディングドレスを着る準備をしていた時、父親が孫を膝の上に置いてご飯を食べさせているシーンを思い出した。

「孫が結婚するまで死ねない」
「孫の結婚式には必ず出る」

という声が聞こえたような気がした。

その時 私は無意識に近い状態で試着室を飛び出し、父親が入院している病院のナースステーションに駆け込んだ。

そしてナースステーションにいた女性看護師に事情を説明した。

父親が初孫ができた時に「孫が結婚するまで死ねない」と発言していたことと、そして今、近所の試着会場でウエディングドレスを着ていること。

必死になって説明する私の話を聞いた看護師さんは仕事上 この先どういう現実が待っているのかを知ってか、目から涙が自然と零れ落ち、院長を説得するのでここで待っていてください。と静かに言ってくれた。

そして院長の自宅に電話をして詳細を説明して頂くと、何か問題があっても一切責任は取れないことを条件に1時間だけの外出許可が下りた。

すると突然ナースステーションから10メートル以上は離れた病室から大きな泣き声が聞こえた。
それも今まで聞いたことがないような大きな声が…。

その泣き声とは、この半年間は誰を見ても焦点が合わない、全ての感情すら消えていた父親の泣き声だった。

他の階にいた看護師さん5名ほどが集まり、ベット型の大きな車椅子に移し替えてくれた。

私が事情を説明した看護師さんが「お隣でお孫さんがウエディングドレスを着て待っているそうよ!
楽しみにしていたことが実現して良かったですね。

父親に優しい口調でと話しかけると、父親は涙をボロボロと流しながら更に叫ぶような大きな声で泣いていた。

ベット型の車椅子に乗せてもらってから病院を出て車椅子を押して試着会場まで行くと

「おじいちゃん」と孫が涙声になりながら呼び掛けるとまた父親は声にならない泣き声をあげていた。

ずっと傍で付き添っていた母親ですら全ての感情が消えてしまった父親のを見ていただけにウエディングドレスなんか見せても絶対に理解できるはずがない!

断言していた母親が

お父さん本当に良かったね。

10年 頑張った甲斐があったね。

泣き声で何度も呼びかけ、その場にいた全員が涙した。

この病院に入院する半年前には誰が話しかけても、身体をゆすっても、焦点が合わずに天井の一点だけを見つめているだけの状態だったのに明らかに孫のウエディングドレス姿をじっと見続けている。

本当に奇跡が奇跡を呼び父親に初孫のウエディングドレス姿を見せることができた。

そして記念撮影が終わると、約束の時間内に父親を病院まで送り届けた。

私が父親を病院に連れて帰っている間に孫たちはウエディングドレスを脱ぎ、全員で父親の病室まできた。

ベットに戻された父親に孫がおじいちゃんと声を掛けたが疲れ切った影響なのか、また同じように天井の一点だけを見つめて孫が呼びかけても一切反応しなかった。

ウエディングドレス姿で待っているという言葉を聞いた瞬間に泣き出し、初孫のウエディングドレス姿の顔をずっと見続けていたあの一瞬だけ神様が奇跡を与えてくれたのかもしれない。

そして、その奇跡的な出来事からちょうど2ケ月後の同じ日 2018年12月6日 15:13 分

SOFTBANKの大規模通信障害が発生した日 私と母親が見守る中、父親は77歳の生涯に幕を閉じた。


葬儀屋さんも初めての体験した不思議な話

医師から死亡宣告されてあとに父親は病院の霊安室に運ばれ、葬儀会社が手配した車を母親と共に待っていた。

父親の顔はわずか1時間前までの顔と異なり人形のように無表情の顔になっていた。

たった1時間でお父さんの顔が死んだ顔に変わるとは…。
と母親がしきりに口走っていた。

そして17:00ごろ病院に葬儀会社の車が到着し、父親の亡骸を乗せて大好きだった家に連れて帰ることになった。

私と母親は自分の車で家に戻った。

少し遅れて葬儀会社の車も到着し、翌日のお通夜までの間 父親が寝ていた寝室に布団を敷いて寝かせてもらった。
そして仰向けに寝かされた父親の顔には白い布が被せられた。

私と母親は葬儀会社の担当者との葬儀についての打ち合わせのためリビングに移動していたが、私は葬儀に参列する準備のため一旦自宅に戻ることにした。

リビングを出てから寝室に入って父親に挨拶してから帰ろうとした。

そして父親の顔に被された白い布を剥いだ瞬間

大声で叫んでしまった。

隣のリビングで葬儀会社の担当者と打ち合わせをしていた二人が何事かと驚いて寝室に来ると、父親の顔を見た母親が泣き崩れるように大きな泣き始めた。

わずか30分程度の時間に無表情だった父親の顔は口角がが上がり、ニッコリと歯を見せて笑っている表情に変わっていたのだ。

母親はお父さん、大好きな家に帰ることができて本当に良かったね。と何度も何度も泣きながら話しかけていた。

死後の世界はどうなっているのかは全く知らないが、父親の出来事を目の当たりにした私は心臓が止まっても魂は生きているのではないか? と思っている。


今でも父親が脳卒中で倒れたことを悲観する母親だが、私の考え方は少し違う。

幼少の頃に実母と母親代わりで優しく接してくれた長女を病死で亡くし愛情に飢えていた父親。

愛情に飢えた父親に対して神様が病というカタチでプレゼンとしてくれたと思っている。

その病があったからこそ、本来なら数カ月に一度程度、いや年に一度程度しか会えない状態だったのが病のおかげで孫や子供たちが時間を割いて何度も何度も会いに来てくれた。

そして大好きだった母親とも病のおかげで一番長く時間を過ごすことができた。

父親にとって病は愛情を受けるために必要不可欠な出来事だったのかもしれない。

おじいちゃんはちゃんと出席してくれたよ

父親の死から約半年後 東京都内のホテルで初孫の結婚式と披露宴が執り行われた。

父親はこの日をどれほど楽しみにしていたことだろう…。

披露宴会場のテーブルには誰も座わることがない特別席が用意され、ナイフとフォークの間には父親の名前が書かれた席札が用意されていた。

その結婚式からちょうど2年後に新しい命を授かったと連絡が入った。

父親が元気で生きていたら間違いなくひ孫をお風呂に入れた後に膝の上に乗せて食事を与えていただろう。

いや、また父親のことだから何らかの奇跡を起こしてくれるかもしれない。

奇跡が起こって欲しいと願っている。

私は父親を通じて医療と介護の世界を知ることができました。

長年 多くの方々が手厚いケアをして頂いたおかげで余命最長宣告の2倍もの時間を与えて頂き、そして父親が念願だった初孫の結婚式には参加はできませんでしたが、ウエディングドレス姿を見せてあげることができました。

医療・介護業界の方々に感謝し、私ができることで介護業界の役に立てることを続けていきたいと思っております。

ありがとうございました。

記 山下 裕隆